子どものころの話:いじめと母の思い出

自分が小5のころ、学校でいじめが流行っていた。

「いじめ」という言葉が生まれ、社会問題化し始めていた初期のころだったと思う。「村八分」とか「しかと」という言葉があって、誰か1人を標的にして、クラスの多数の子どもがその子を無視するということが、しばらく起きていた。

自分も気づいたら、その標的になっていた。毎日一緒に帰っていたはずの友だちが急に話してくれなくなった。学校からも一緒に帰らなくなった。声をかけるのに、明らかに反応がなかった。なぜだろうと思うのと同時に、相手にされない悲しさや悔しさ、自分という存在の意味のなさが胸にあふれて、何も考えられない日が続いた。家に帰って、ベッドに寝転がっては、壁に貼ってあったカレンダーで、あと残り何日学校に行かなければならないのかを数えていた。まだ、5月くらいだったから、それはもう何百日にもなった。そんな日が幾日も続いたと思う。

なぜだか分からないけれど、学校から帰ってきた時の自分のようすに母が気づいてくれた。ベッドに並んで座り、静かに話を聴こうとしてくれた。けれど、何て言えばいいか分からず、どこから話していいか分からず、話そうと思うのに何も言えずに何十分も過ぎてしまった。時々、母は用事を済ませるために離れたが、しばらくして戻ってきてくれた。そして、自分が話せるタイミングが来るまで、静かに待っていてくれた。 心の中でのタイミングをずっと探り続けて、ふとした瞬間に、自分から話をした。もう何を話したかは、まったく覚えていない。でも、無視されていること、つらい気持ちであることを話したんだと思う。

そして、覚えていないけれど、次の日は学校を休んだ気がする。 その後、学校に戻った時には、いじめの関係はなくなっていた。 今でも一番印象に残っているのは、自分が話し始めるのを静かに、緩やかに待っていてくれたことだ。それがあったから、きっと自分は大丈夫だったんだと思う。 子どもに関わる仕事に就いていたわけでもなんでもないのに、そういう関わり方をしてくれた母のことは、今思うとすごいことだと思う。

今、自分は子どもに関わる仕事に就いている。その自分ができることは、誰かにとってのそういう存在になることでもあるし、色んな人がそういう風に子どもと関わるマインドを持てるようにすることなんだと思う。大人がそう望んでいたとしても、必ずしも目の前の子にとってのそうした存在になれるとは限らないけれど。実のところ、そういう経験が今の自分の仕事を選んでいる奥底にあったのかもしれない。

今、私が理事をしている別の団体で「#学校ムリでもここあるよ」というキャンペーンに協力している。場所単位の登録にはなっているけれど、結局はそこでの人との出会いが心の支えになることがある。そんな出会いがひとつでも生まれていくといい。

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